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Metropolitan Museum

​アメリカ人の誇りとその魂が宿る「メトロポリタン美術館」

 

 メトロポリタン美術館の設立構想は、1864年、パリで7月4日のアメリカ独立記念日を祝うために集まったアメリカ人たちの会合の席で提案された。この会合の参加者のひとりだったジョン・ジョンストンは、アメリカに国際的規模の美術館が存在しないことを憂い、メトロポリタン美術館の設立構想を訴えたが、この時点では美術館の建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった。

 美術館は6年後の1870年に開館。その後は基金による購入や、様々なコレクターからの寄贈によって収蔵品数は激増し、関係者達の努力の結果、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品ほか家具・楽器・装飾品など300万点の美術品を所蔵。全館を一日で巡るのは難しいほどの規模を誇る、世界最大級の美術館のひとつとなっている。

 メトロポリタンの特色は、そのコレクションの幅が極めて広く、古今東西問わずあらゆる時代、地域、文明、技法による作品を収集していることにある。そして最大の特色は、これだけの規模の美術館が、国立でも州立でも市立でもない、純然とした私立の美術館である点である。

「デラウェア川を渡るワシントン」

378.5x647.7cm

​1851年 油彩 カンヴァス

イマニュエル・ゴットリーブ・ロイツエ 

1816~1863 

19世紀の多くの画家や彫刻家、小説家が、アメリカの植民地の歴史を感傷的に再構成した作品を創作した。史実には不正確なところが多いが、この絵は、こうしたロマン派的な発想が顕著な作品である。ロイツエがデュッセルドルフに住んでいた1851年の作品であり、当時その地で盛んであったロマン派絵画のスタイルを強く示している。ロイツエがドイツで仕事をしていたときに、ちょうど居合わせていたアメリカ人画家、ワーシントン・ホワイトリッジがワシントンと舵手、双方のモデルを努めた。

「ジョージ・ワシントンの肖像」

76.8x64.1cm

​1795年 油彩 カンヴァス

ギルバート・スチアート 1755~1828 

イギリスから戻った2年後の1795年、ステユアートはフィラデルフィアで、ジョージ・ワシントンを前にはじめての肖像画を描いた。この絵を描いて、ステユアートは当時を代表するアメリカの肖像画家となり、絵はアメリカ美術で最もよく知られている画像のひつとなった。32枚のレプリカが注文されたが、そのうちの数点は生命力にあふれこの作品に匹敵する質を示しているから、少なくとも部分的には、本人を前にして描かれたと思われる。豊かな階調をみせる肌の色が緑色の垂れ幕によってより引きたたされており、自由で表現力豊かな筆づかいがシンプルな構成と人物の威厳のある表情をうまく対照している。ステユアートの作品は、多くの19世紀初期アメリカ肖像画家に大きな影響をおよぽした。

「ロッキー山脈 ランダーズ・ピーク」

186x306.7cm

​1863年 油彩 カンヴァス

アルバート・ビーアスタット 

1830~1902 

 ピーアスタットは、1863年作の(ロッキー山脈〉に代表されるアメリカ西部の景観を描くことをもっぱら得意とした。柔らかな朝の光を浴びるショショーニインディアンの平和な居住地の情景は、アメリカ西部の未開拓地の楽園的なイメージを伝えている。ピーア
スタットがとらえた雪をいただいてそびえたつ山々、広大で地味豊かな谷間は、広くゆきわたった運命論、つまり、当時国民的な関心事であった西に向けての国土拡張は神の意思であるという思い込みを映し出している。彼は西部を旅したときのスケッチや写真などを使い、完成画はアトリエで制作した。インディアンの平和な居住地の情景は、アメリカ西部の未開拓地の楽園的なイメージを伝えている。ピーアスタットがとらえた雪をいただいてそびえたつ山々、広大で地味豊かな谷間は、広くゆきわたった運命論、つまり、当時国民的な関心事であった西に向けての国土拡張は神の意思であるという思い込みを映し出している。彼は西部を旅したときのスケッチや写真などを使い、完成画はアトリエで制作した。

「ヴァイオリンと楽譜」

101.6x76.2cm

​1888年 油彩 カンヴァス

ウィリアム・マイケル・ハーネット 

1848~1992 

1888年に制作されたこの作品で、ハーネットは立面に物を適宜に配置して、トロンプ・ルイユ(だまし絵)の極致を示している。楽譜と名刺の表面は平らではなく角を折り曲げた状態で描かれ、少し開いた扉は、その背後の奥行きを感じさせる。重たいものは、ひもでつるされたり、あぶなげなバランスを保って釘に掛けられている。ハーネットは古いヴァイオリンの微妙な色彩や弦のきらめき、銀や象牙、ピッコロ、金属製の蝶番、蹄鉄、掛け金、錠前などのそれぞれ異なる質感を楽しんで描き出している。彼はその卓越した技術と一般受けのする主題とで、同世代のアメリカの静物画家の中で最もうらやまれる存在になった。

「ソクラテスの死」

129.5x198.2cm

​1787年 油彩 カンヴァス

ジャック・ルイ・ダヴィッド 

1748~1825 

哲学者ソクラテスは、アテナイの社会とその制度を痛烈に批判していた。神々の否定と、その教えが若者を堕落させたという理由で、ソクラテスはアテナイの政府から告発を受けた。そこで、彼は自分の信念をくつがえすよりも、自らの手で死ぬことを選ぶ。ダヴイッドは、魂の不滅を説きながら、毒ニンジンの汁が入った杯に平静に手を伸ばすソクラテスを描いている。
この作品は、1787年、フランス革命の前日にサロンに展示された。ソクラテスの社会批判と、禁欲的な自己犠牲に対する敬意には、政治的な含意があふれており、旧体制の不正に対する抗議とみなされた。≪ソクラテスの死≫は、共和主義の美徳の象徴となり、新古典様式を宣言する作品となった。

「窓辺で水差しを持つ女」

45.7x40.6cm

​1665年 油彩 カンヴァス

ヨハネス・フェルメール 

1632~1675 

完壁に均衡のとれた構図、静かで透明な光、青とグレーの銀色みをおびた色調を組み合わせて、間近で観察した室内の情景の眺めを描き出し、この作品を古典的なものにしている。
寡作であること(現存する確かなフエルメールの作は35点に満たない)、それらがあまり広くしられていなかったことから、フェルメールは死後まもなく忘れられてしまった。フランスの批評家テオフイル・トレがオラング訪問中に、フェルメールの作品が再発見されるまでの間に、およそ200年の年月が流れた。
今日フェルメールはオランダで最も高く評価されているひとりで、この作品は、円熟期の初期の特徴を示しており、1660年代のはじめに描かれたと考えられている。

「少女」

44.5x40cm

​1665年 油彩 カンヴァス

ヨハネス・フェルメール 

1632~1675 

この作品も「真珠の首飾りの少女」と同じポーズ同じ背景だがモデルについては実在の人物なのかトロニー(架空の人物)なのか現在でも意見の割れるところだ。
フェルメールの作品目録に「古代風の衣装をつけたトロニー」とあるのがこの作品ではないかと言われているが肩にかけている衣装がどのように「古代風」なのか議論の余地がありそうだ。

「メズタン」

55.2x43.2cm

​1664年 油彩 カンヴァス

ジャン・アントワーヌ・ヴァトゥー 

1684~1721 

  メズタンという名前は「半分」を意味し、イタリア生まれの即興劇、コメディア・デラルテのキャラクターのひとりである。彼は恋にもろく、感傷的で、報われない恋を追う片思いの従者である。背を向けた大理石の女人傾が立つ緑濃い庭園の前で彼が歌っているところが描かれている。女人傾は彼のロマンティックな愛の言葉に耳を傾けようとしない女性を暗示する。ヴァトーは、芝居の衣装を着けた友人や役者たちを数多く描いたが、この絶妙で、憧れを託した作品のモデルが誰であるかはわかっていない。ヴァトーの短い生涯の終わりに近い1717年から19年に制作された。

「二人の弟子のいる自画像」

210.8x151.1cm

​1785年 油彩 カンヴァス

アデレード・ラビーユ=ギアール 

1749~1803 

ラビーユ=ギアールは、最初、細密画家として修業をしたが、のち、1769年にモーリス・クァンタン・ドゥ・ラ・トウールについてパステル画を学んだ。1785年作のこの絵にあらわれている豊かな色彩と精細な描写には、彼女の初期の修業が反映している。
1783年に、ラビーユ=ギアールとヴィジェ・ル・ブランが、ともにフランス王立アカデミーの会員として認められたとき、女性会員の数は5名に限定されていた。そしてこの作品は、アカデミーにおける女性の地位向上をうたったプロパガンタと解釈された。
ラビーユ=ギアールの弟子には、1781年から亡くなるまでパリで展覧会を行ったマドモワセル・カペ(1761-1818)と、1783年と84年に展覧会を開いたマドモワゼル・カロード・ロズモンド(1788没)がいる。ラビーユ=ギアールはフランス革命に共鳴し、ヴィジェ・ル・ブランとは異なり生涯をフランスで過ごした。

「干し草の山:秋」

85.1x110.2cm

​1874年 油彩 カンヴァス

ジャン・フランソワ・ミレー 

1814~1875 

 この作品は、「四季」を描いた連作のうちの-つで、実業家フレデリック・アルトマンから1868年に依頼された。
 ミレーはバルビゾン派の画家で、この連作は依頼を受けてから7年間にわたり断続的に制作された。

「ポントワーズのジャレの丘」

87x114.9cm

​1867年 油彩 カンヴァス

カミュ・ピサロ 1830~1903 

 1866年に、ピサロはパリの北西にあるボントワーズに移り住み、1868年までそこで暮らした。オワーズ川沿いにある丘陵地の村の小道や農家、丘の中腹、耕作された畑などが、堅固な構成による一連の作品の格好の主題になった。それらの作品にみられる力強い筆致と平面的な色面は、パリの展覧会で大々的に展覧され、多くの議論を呼んでいたコローやクールベの作品からの影響が大きい。1867年作のこの絵は、1868年のサロンに出品された。エミール・ゾラはこれを称賛し、こう言明している。「ここには現代の田園風景が広がっている。人は感じるだろう。人間が大地を掘り起こし、切り開いて、通,り過ぎていったことを・・・。そして、この谷間、この丘の中腹は素朴さとヒロイックな自由を包み込んでいる。平凡であり得ないものは、偉大とはいえない。この画家の資質がありふれた現実から、まれにみる生と力の詞を生み出した。」

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